夫がマニキュアを塗りたいと言った夜

立ち止まる時間

「俺も、マニキュア塗ってみたい。」

夫のその一言に、私は一瞬、言葉にできない違和感を覚えました。

そう言われたのは、私が化粧をしている最中のことでした。
おそらく、机の上に広げていたコスメボックスの中に、ピンクのマニキュアがちらっと見えたのだと思います。

突然のことで、何かの聞き間違いかと思い、
「え? マニキュア? これのこと?」
と、ピンクのマニキュアを持ち上げながら聞き返しました。

すると夫は、
「それもいいけど、黒とかシルバーとか、やってみたい。」
「男でも最近、やってる人いるじゃん。」
と、少し照れたように言いました。

私は少し戸惑いましたが、この人の、壁を作らずに「やってみたい」と言える素直さが、なんだか面白いなと思い、翌日一緒にドラッグストアへ行くことにしました。

本当は一緒に色を選ぶ予定だったのですが、娘が車の中で寝てしまいました。
それで夫が、
「ちべちゃんが、俺に似合うと思う色にして。」
と言うので、夫が口にしていた黒に近い色を、私が選ぶことになりました。

10分から15分くらいでしょうか。

黒といっても、真っ黒のエナメルのようなものから、マットなもの、少し透け感のあるものまでいろいろあって。
マニキュアコーナーを行ったり来たり、レジまで足を運んではまた戻りを繰り返し、やっと一本を選ぶことができました。

(周りにいた他のお客さん、すみません……)

せっかく塗るなら、妥協はしたくなかったんです。
はじめての一本にふさわしい色を、ちゃんと選びたくて。

それは、私がはじめて母にマニキュアを塗ってもらったときの気持ちと、どこか重なっていました。
自分の手が少し特別なものに見えて、何度も見てしまった、あの感じ。
夫にも、そんな気持ちを一度味わってみてほしかったのかもしれません。

夜になり、すべての家事を終えたあと、夫を私の前に座らせました。

(手はやっぱりまだ抵抗があるそうで、足に塗ることにしました。)

ちょこんと体操座りをして、私に足先を差し出す夫は、少し恥ずかしそうで、いつもより幼く見えました。

じっと集中しながら、でもどこか楽しそうに、爪に色がのっていく様子を見ている夫。
その表情は静かでしたが、確かに嬉しそうでした。

出来上がった爪を見て、
「思ったより自然だね。うん、気分が上がる。」
と、満足そうに言いました。

その顔を見て、私もとても温かい気持ちになりました。

あのとき、夫が「マニキュアを塗りたい」と言った瞬間、
私はほんの一瞬、「男のくせに?」と思ったんです。

自分の中に、まだそんな固定観念や偏見があることに気づいて。
それに少し抵抗するように、夫の気持ちを尊重しました。

偏見は、きっと誰の中にも、そっと根を張っているものなのだと思います。

なくそうと力を入れるよりも、
「あ、今ちょっと思ったな」
と気づいたときに、少し立ち止まれるかどうか。

それだけで、十分なのかもしれません。

黒に近い色を選んで、足の爪にそっと塗った、あの夜。

爪を見つめる夫の横顔を見ながら、
私は自分の中に浮かんできた、いろいろな気持ちを、静かに眺めていました。

答えは、まだ出ていません。

でも、こうして考え続けている時間が、今の私には心地いいのです。

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